希望は願いを超えてー心の羽よ君へ飛んでけ!ー
はじめに
今回のテーマは「心の羽よ君へ飛んでけ!」です.この曲の歌詞世界の優しさや美しさに惹かれた方も多くいらっしゃると思います.
題名にもある「心の羽」ですが,これは歌詞中で
心の羽は僕らの希望
と歌われていますが,同様に歌詞中に出てくる「願い」とは明確に区別されています.というのも,もし希望=願いだとすると,
心の羽を休めながら 明日を夢見てる
という表現に非常に違和感が生じます.明日を夢見るのに,希望は必要ないのでしょうか?この辺りの表現を紐解くことで,この曲がもっと大好きになるような味わいを感じていただけたらと思っています.興味のある方はぜひ最後までお付き合いください.
「願い」のニュアンス
夜のとばりには 銀色の星が流れる
みんなの願いをかざって 胸に思い出きざむよ
「星が流れる」「願い」は縁語です.願いは星に託されると解釈できるでしょう.では,今まであまり主題としては現れなかった「願い」にはどのようなニュアンスがあるのでしょう.少し例を見てみます.
あふれそうな想いは 世界中で遊びたいって心からの希望
(中略)
めちゃくちゃな願いを 世界中で叶えようって私たちの野望
「スリリング・ワンウェイ」
注目すべきは,本歌詞と同様の対比構造が見える点です.「めちゃくちゃな願い」という表現もひとつ見ておいていただきたいです.さらに,
キミの願い 星が見てるよ やさしく照らして見てるから
ナミダ色の日記書いても 窓辺で未来をささやいてる
「聖なる日の祈り」
こちらは 「星」という表現が本歌詞と共通しています.星が見えるのは夜ですから,「太陽」がいないということになりますね.その辺は後述することにしますが,「ナミダ色の日記」という表現に注目してください.恐らく,「キミ」の感情は悲しさ,寂しさ,悔しさのようなものだと推測できます.そんな人物が「願い」を持つわけです.
なんとなく伝わったでしょうか.次の項では,私の見解をまとめます.
「願い」と「希望」の決定的違い
では,今回の考察の軸となるこの2つの言葉の差について解釈を述べます.
まず「希望」ですが,これは現実的な実現可能性を踏まえて抱かれるものです.だから常に希望の先には目指すべき場所(比喩としては太陽)があるのです.
一方「願い」ですが,これは主観的なものであり,必ずしも具体性を伴わないものです.であるからこそ,不可能なことや覆らない過去の事柄もその対象に含むのです.スリリング・ワンウェイの「めちゃくちゃな願い」には「実現可能性を度外視した想い」という意味があったわけです.聖なる日の祈りの悲しさを伴った「願い」にも,主観的で抽象的な願いであるというイメージを喚起させます.思い返せば2期10話,「サンシャイン」を冠する物語でなぜ流れ「星」を探しに行ったのかも,御覧になった方なら想像がつくと思います.
さて,このことを今回の歌詞に当てはめて考えるとどうでしょうか.
ずっと楽しいままでいたいだけだと
空と海の境界へ語ろう
これは実現可能性を度外視した想いなので「願い」です.すると,心の羽は行先が無い訳ですから羽ばたけません.だから,夢(=太陽)が隠れている夜に流れる星に願いを託すのです.それは空しい響きを持つように聞こえてしまうかもしれませんが,そうではありません.「空と海の境界」とは水平線の事です.
海へと沈むけど 海から昇るんだ 月も太陽も
「未体験HORIZON」
これは,まだ見ぬ太陽がそこにあるからこそ水平線を持ち出していると解釈できます.
他にも,
いっぱい遊ぼうって 君との約束だった
これは過去の覆らない事柄が対象である「願い」です.それに対して
これからだって一緒に遊ぶんだ
これはもうお分かりの通り「希望」です.つまり,この誓いこそがAqoursの届けてくれた「心の羽」なのです.そう考えると,
すぐ会える君と 会えるよすぐに
という言葉が歌詞の中で4回も,希望として明示的に歌われていることもよく分かるような気がします.
曲のメッセージと「今」を歌うこと
では,この曲のメッセージは「また会える日がきっと来る」なのでしょうか.全く間違ってはいないと思いますが,個人的にはそれだけでは不十分な気がします.Aqoursはここまで,どんな時でも前を向いて走ってきました.「明けない夜はないと走ってきたね」とキセキヒカルでも歌われています.「太陽を追いかけろ!」は,題名の感嘆符や曲の内容から,この曲の対になるような曲だなと思っています.そこでも「楽しくなる希望がある」と希望が歌われていました.
そこで,なぜ希望と願いを対比させるのか考えてみます.個人的には,ラブライブ!は「今」を何より大切にしているからだと思います.Aqoursにすれば未来は「イマを重ね」た先にあります.過去のことも,「今までやってきたことは全部残っている,何一つ消えたりしない」のです.畑亜貴先生の作る歌詞の具材はなかなか(いや,まったく)見えてきませんが,少なくとも「今のAqours」があることは疑いようもないのです.劇場版を経て成長したAqours.5周年を迎え益々たくましいキャストの皆さん.思い通りにいかなかった1年間.具体的なことではなく,あくまでたくさんの人のたくさんのことが描かれているものだとは思いますが,それらが全部全部詰まって出来ているのが歌詞なのです.
すると,この歌詞は「つらくても頑張ろう」と手を引っ張り続けてくれた数年前のAqoursには歌い得ないものだと思えないでしょうか.少し足を止めて,願いを募らせてもいいんだと歌っているのです.そして,
楽しさと切なさはなんで隣にあるんだろう なんでだろうね
と,つらい時は「つらいよね」と隣で共有してくれる.ずっとAqoursに憧れて走ってきたファンにとって,こんなにも嬉しいことがあるでしょうか?Aqoursと出会い,長い人は6年間近くを経て,今Aqoursの隣で共に走っているという証左に他なりません.こうやって,「Aqoursの新しい色」が生まれていくんだなと強く感じます.
おわりに
私が常々思っていることですが,ラブライブ!の楽曲は総じて枝折のようなものだと考えています.始めて出会った時から,その道を通りかかるたびに目印として折った枝を見て,様々な記憶や感情を想起させられる.その道を通れば通るほどその想いは強くなり,同じ枝でもそれを見て感じることは毎回違います.
これは砕いていえば「聞けば聞くほど好きになる」と言いたいわけですが,もうひとつ「その時にしか感じられない想いがある」ということでもあります.「曲って大体そうだろう」と思われそうですが,ラブライブ!って,とにかく動機や気持ちに嘘が無いんです.アニメもライブも曲も,そうですが,それは何より「今」に不整合が無いように心が込められているからだなと感じます.だからこそ,「今」ラブライブ!を愛する意味というのはとても大切にしたいなと思っています.
余談が過ぎましたが,今回はこの辺で終わります.この記事が「心の羽よ君へ飛んでけ!」の魅力をより深く感じるきっかけになっていたら幸いです.
(注)以上の考察は,作品に込められたたくさんのメッセージの中の一部についての,1つの解釈を提示したものです.